監督紹介


ヤン・ニェメツ(Jan Němec 1936年7月12日~2016年3月18日)

チェコのプラハ生まれ。劇映画とドキュメンタリーの監督や脚本家、俳優としても活躍する。1957年から1962年までFAMUで映像演出を学び、在学中にアルノシュト・ルスティク原作の短編映画『一口の食糧(Sousto)』を撮り、オーバーハウゼン映画祭など数々の国際映画祭で評価、注目される。長編第1作もルスティク原作の『夜のダイヤモンド』で、監督への評価を不動のものとするが、続く『パーティーと招待客』が物議を醸し、監督は逮捕され、作品は上映禁止となる。ほぼ同時期に撮られていた『愛の殉教者たち』の後は、検閲が厳しくなる。(最初の妻であるエステル・クルンバホヴァーはこの長編3作に脚本や美術で参加した)1968年の「チェコ事件」の様子を収めたドキュメンタリー『プラハのためのオラトリオ』は国外に持ち出され世界的に有名になる。マルタ・クビショヴァーとは1969年に結婚し1972年に離婚。ニェメツは1974年に亡命し、ドイツ、スウェーデン、イギリス、アメリカなどで活動し、アメリカ映画『存在の耐えられない軽さ』ではクンデラの翻訳アドバイザーとして参加し、チェコ事件の映像も提供する。1989年にチェコに戻り映画製作会社を設立。チェコ初のインターネット配信のドキュメンタリー『母との夜長話(Noční hovory s matkou)』を撮り、2001年にロカルノ国際映画祭で金豹賞を受賞。2002年ハヴェル大統領から功労勲章が贈られるが2014年にゼマン大統領の専制的な政治に抗議して勲章を返す。FAMUで教え、2016年まで精力的に映画製作を行う。


ヴェラ・ヒティロヴァーVěra Chytilová 192922日〜2014312日)

チェコのオストラヴァ生まれ。ブルノ工科大学で建築を学び、モデルから映画の端役になり、映画の記録係としてバランドフ映画撮影所で働き、1957年から1962年までFAMUで映像演出を学ぶ。1962FAMUの卒業制作として撮られた短編『天井』と、『一袋分の蚤』が劇場公開され国内外の映画祭で高い評価を受ける。長編第1作『違う何か』はマンハイム国際映画祭でグランプリを受賞。1963年にカメラマンのヤロスラフ・クチェラと結婚し、1965年『水底の小さな真珠』(フラバル原作のオムニバス映画)、1966年『ひなぎく』、1969年『楽園の果実』とクチェラと共に作品を作る。国際的な名声とは裏腹に1970年以降政府は映画撮影の許可を出さず、アメリカの映画祭での『ひなぎく』の上映も認めなかった。ヒティロヴァーは1975年にフサーク大統領に公開書簡を送り、翌年それがイギリスの雑誌に載ると1976年に『りんごゲーム』(イジー・メンツェル出演)の撮影許可が降り、同作はシカゴ国際映画祭で銀ヒューゴ賞を受賞する。1987年『道化師と女王』でチェコ文学基金賞などを受賞。チェコスロヴァキアの初代大統領(『解放者マサリィク』)やモーツァルト(『私を認めたプラハ市民』)、クルンバホヴァー(『エステルを探して』)などのドキュメンタリー映画もあり、2009年の『虐められた愛』まで作品を撮り続ける。FAMUで教え、チェコ映画のファーストレディーと称される。フランス芸術文化勲章や、チェコの功労勲章、芸術貢献賞も授与されている。

 


カレル・ゼマン(Karel Zeman 1910年11月3日~1989年4月5日)

オーストリア=ハンガリー帝国時代にチェコのノヴァー・パカのオストロムニェジュ村で生まれる。第一次世界大戦後に渡仏し職を転々とする。チェコに戻ると靴メーカーのバチャ社の広告を手がけ、エルマル・クロスの勧めでズリーンのクドゥロフ・スタジオに入り、ヘルミーナ・ティールロヴァーの助手をし、デビュー作である短編人形アニメーション『クリスマスの夢』(1945)がカンヌ動画部門最優秀作品賞を受賞。ガラス細工が有名なチェコならではの『水玉の幻想』では素材の美しさと技術の高さが評価され世界中の映画祭で絶賛される。そして何と言ってもゼマンの名前を一躍有名にしたのは1955年の『前世紀探検』から『悪魔の発明』(1958)『ほら男爵の冒険』(1961)『狂気のクロニクル』(1964)『盗まれた飛行船』(1966)『彗星に乗って』(1970)と続く、ジュール・ヴェルヌなどの空想小説を独自のトリック撮影とアニメーションと実写の組み合わせで描いた作品群で、世界中の子供も大人もその映像の魔術に魅せられ、ヴェネツィア、モスクワ、ロカルノ、カンヌ、サンフランシスコ、テヘラン等々、全ての作品が数多くの世界的な映画祭の賞を獲得し、『前世紀探検』と『悪魔の発明』でチェコスロヴァキアの国家賞を受賞し、『悪魔の発明』は平和賞も受賞している。また人形アニメーションとしてユーモラスな短編「プロコウクさん」シリーズや、『千一夜物語』シリーズがあり、切り絵アニメーションとして美しく詩的な『クラバート』や『ホンズィークとマジェンカ』がある。1980年の『ホンズィークとマジェンカ』が遺作となり、1989年11月に起こるビロード革命の前に亡くなった。


エルマル・クロス(Elmar Kros 1910年1月26日~1993年7月19日)

オーストリア=ハンガリー帝国時代にチェコのブルノに生まれる。1935年から1942年までバチャ社で広告映画を撮り、ドキュメンタリー作品も手がける。戦争中はナチスに抵抗する地下活動のメンバーでもあった。1952年の『誘拐(Únos)』から1969年までカダールとの共同監督で8作品を製作する。高校時代からヴラヂスラフ・ヴァンチュラとサイレント喜劇の脚本を書き50年代にはカダールとコメディ映画『火星からの音楽(Hudba z Marsu)』『3つの願い(Tři přání)』を撮る。1963年『エンゲルヘンと呼ばれた死神(Smrt si říká Engelchen)』ではズリーン解放のゲリラ戦を描き、国家賞を受賞。1964年、イジー・メンツェルも出演している『被告(Obžalovaný)』で法廷ドラマを描き国内の映画祭でも高く評価されるが、この作品は1969年以降上映禁止となった。1965年『大通りの商店』がアカデミー賞外国語映画賞を受賞し、1969年にチェコとアメリカの共同製作で『アナダと呼ばれた欲望(Touha zvaná Anada)』を撮るが、公職追放され、70年代はアメリカでチェコスロヴァキア映画の歴史に関する本を執筆する。1989年にチェコに戻りプラハとズリーンの映画スタジオの民営化に協力し、『バイソン(Bizon)』を撮る。1966年から1971年までと1990年から1993年までFAMUで教え、1993年プラハで亡くなる。別名としてクラウス・ハコン、エルマル・ヤン・ルドルフ・クロス、イジー・ムスィルがある。

ヤーン・カダール(Ján Kadár 1918年4月1日~1979年6月1日)

オーストリア=ハンガリー帝国時代にブダペスト(現在のハンガリー)に生まれる。法律の勉強をしていたが、スロヴァキアのブラチスラヴァでカレル・プリツカの学校に入り写真と映画を学ぶ。第二次世界大戦中はナチスによって強制収容所に入れられ家族を失う。戦後スロヴァキアに戻り1947年から1949年までブラチスラヴァの短編映画スタジオでドキュメンタリーなどを製作する。プラハの長編映画スタジオに移り、1949年、工場に働きに来た若い娘を描いたコメデイ映画『カトカ(Katka)』でデビューする。1952年から1969年までクロスとの共同監督で8作品を製作する。ラテルナ・マギカの舞台にもクロスと参加する。チェコ事件後、1970年にアメリカに渡り『大通りの商店』の主演女優であるイダ・カミニュスカーとハリー・ベラフォンテが出演する『天使レヴィン(Anděl Levine)』を撮り、1975年にはカナダで『父が私についた嘘(Co mi táta nalhal)』を撮る。その後はアメリカでテレビ作品を作るが1979年にアメリカ・カリフォルニア州のロサンジェルスで亡くなり、同年作ったモハメド・アリ主演の『フリーダム・ロード』が遺作となる。別名ヤーノス・カダール。


ヤロミル・イレシュJaromil Jireš 19351210日~20011024日)

スロヴァキアのブラチスラヴァに生まれる。1953年にFAMUの写真学科で1958年まで学び、1960年まで映像演出を学んだ。1960年から1962年までラテルナ・マギカで演出をし、バランドフスタジオにも入る。1963年長編デビュー作『叫び』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞し世界的な評価を受けるが、体制に批判的と捉えられ、短編とドキュメンタリー以外は5年間劇映画の撮影の許可が得られなかった。1968年、ミラン・クンデラ原作、共同脚本の『受難のジョーク(冗談)』を撮り、作品は大ヒットし、国内やイタリア、スペインの映画祭でも高い評価を受けるがチェコ事件後は上映禁止となる。(クンデラは1975年にフランスに行き、1979年に国籍を剥奪される)1969年ニェメツの代役としてエステル・クルンバホヴァーの脚本・美術で『闇のバイブル(ヴァレリエと不思議な1週間)』を監督しベルガモ国際映画祭でグランプリを受賞し、欧州でカルト的な人気を博す。70年代も国内で映画を撮り続け『マルシカの金曜日』や『銀の鷺の島(Ostrov stříbrných volavek)』など国内外の映画祭で高い評価を受ける。ドキュメンタリーとしてチェコの国民的画家アルフォンス・ミュシャや、音楽家レオシュ・ヤナーチェクを題材にした作品もある。後者は『白いたてがみのライオン』の邦題で、日本でVHS発売された。1989年から1999年までFAMUで教える。交通事故に遭い、2001年プラハで亡くなった。


ユライ・ヘルツJuraj Herz 193494日~)

スロヴァキアのケジュマルク生まれ。脚本家・監督・俳優。ユダヤ人の家庭に育ち第二次世界大戦末期、強制収容所に送られた。ブラチスラヴァの学校で写真を学んだ後、DAMUで人形劇を学び、セマフォル劇場で演出・俳優として働く。ヤン・シュヴァンクマイエルとはDAMUの同期で彼の短編『部屋』にも出演している。ズデニェク・ブリニフ監督の『一銭勘定』で俳優デビュー。助監督になることを勧められカダール&クロスの『被告』と『大通りの商店』の助監督を務める。1965年のデビュー作はフラバル原作の『集められた無慈悲(Sběrné surovosti)』で、ヤロスラフ・クチェラに撮影を依頼するも断られ、『水底の小さな真珠』にも参加するが30分の制限時間を僅かに超えたためオムニバスに収録されず、FAMU出身のエリートから差別されたという。1968年の『火葬人』はその年のアカデミー賞外国映画賞に出品され、ファンタスティック&ホラー映画で有名なシッチェス・カタロニア国際映画祭などでも高く評価されたが、すぐに国内で上映禁止となり、1990年に再公開される。ミステリー『モルギアナ』(1972)や、シュヴァンクマイエル夫妻が美術を担当したゴシックファンタジー『ナインス・ハート』(1978)、チェコ初のホラー映画で、メンツェルが主演する『高速ヴァンパイア』(1982)などカルト的な人気を持ち、『美女と野獣(Panna a netvor)』(1978)はポルトとシッチェスのファンタスティック国際映画祭で高く評価された。1987年、西ドイツに移住し、テレビでミュージカルコメディシリーズ『ギャグマン(Gagman)』などを製作する。1989年にチェコに戻り、劇映画とテレビの両方を精力的に製作。2009年にチェコ・ライオン芸術貢献賞を受賞し、2010年に第二次世界大戦後のドイツ人追放を題材にした『ハベルマン家の水車小屋』を撮り、2014年にはスロヴァキアに関するオムニバス映画に参加している。

 


イジー・メンツェル(Jiří Menzel 1938年2月23日~)

チェコのプラハ生まれ。映画監督・脚本家・演出家・俳優。演劇を志すも演劇学校の試験に受からず、1958年から1962年までFAMUで映像演出を学ぶ。1965年ボフミル・フラバル原作のオムニバス映画『水底の小さな真珠』で「バルチスベルガーの死」を撮り、それが長編デビュー作『厳重に監視された列車』(1966)のフラバルとの共同脚本に繋がる。デビュー作がアカデミー賞外国語映画賞を受賞するなど一躍、世界的な名声を獲得する。フラバルとの共同脚本は『つながれたヒバリ』(1969)『剃髪式』(1980)『雪割草の祭(Slavnosti sněženek)』(1983)と多く、フラバルの死後もこの盟友の原作で『英国王給仕人に乾杯!』(2006)を撮る。メンツェルは様々な映画に俳優としても出演している。『つながれたヒバリ』が完成後上映禁止になり正常化の時代になると舞台をプロデュースし出演、スイスやドイツでも興業される。1974年に撮影許可が下りて、70〜80年代も作品を発表し続ける。中でもチェコの名優ズデニェク・スヴィエラークが脚本を書き、小さな村のおかしな出来事を描いた『スイート・スイート・ビレッジ』(1985)は人口1500万人のチェコスロヴァキアで400万人という最高観客動員数を記録し、再びアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、モントリオール国際映画祭審査員特別賞などを受賞する。1990年には『つながれたヒバリ』が初公開され、ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞するなど世界中で再評価された。パリのコメディー・フランセーズでも演出をしフランス芸術文化勲章を、チェコでは功労勲章を授与され、世界中の映画祭でも芸術への貢献を讃える賞が数多授与されている。