ペトル・ホリーさんトーク
「チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグ」
『パーティーと招待客』上映後(2017.11.11(土))


以下

ホリー) ペトル・ホリー
(聞き手) くまがいマキ (チェスキー・ケー)

 ホリーさんは早稲田大学大学院で歌舞伎の研究をされ、2006年にチェコセンター東京を開設、所長に就任され、チェコと日本の文化の両方を紹介する仕事をされています。現在は、チェコセンターを退任され、チェコ蔵を主宰され、チェコ文化関連のイヴェントや講演会を開催されています。

 ホリーさんには今回、ヤン・ニェメツ監督の『パーティーと招待客』のチェコ語監修と、『愛の殉教者たち』の字幕翻訳をお願いしました。また本映画祭の公式本『チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグ』にも幾つかのコラムを寄稿していただきました。

 ホリーさんは『パーティーと招待客』をかなり以前から日本に紹介したいと考えていらっしゃったとお聞きしましたが。

 

(ホリー)

 1989年11月17日に(共産党独裁に対して自由化を求める)ビロード革命がチェコであり、その前に(東西ドイツを分断していた)ベルリンの壁が崩壊しました。それがなければ(チェコ国内で完全上映禁止であった)、この映画を見ることは出来なかったと思います。私が初めて見たのはその後、1990年でした。

 皆さんご覧になって、恐らく、この映画の中で「何が起きているのか解らない」、けれど「何かが怖い」「何が怖いのか判らない」という印象を持たれた方も多いのではないかと思います。私も当時、初めて見た時は、この映画がよく判らなかったけれど、非常に怖かった。

 (1960年代の)ヌーヴェルヴァーグというのは、フランスやイタリアが有名ですが、チェコでも、日本でも、ヌーヴェルヴァーグ的な作風で様々な監督が映画を作りました。ヤン・ニェメツという監督はチェコ・ヌーヴェルヴァーグの異端児として波乱万丈な方です。この作品はものすごく好きな映画で、部分的に台詞も暗記しています。プラハで生まれ育ったカフカの作品のような不条理劇で、何故だかよく判らないけれど、非常に好きな作品です(笑)。繰り返し台詞を聞いて、この時に、こういうことを言っている、と確認しながらも、何を言っているのかよく判らない(笑)。

 

 公式本に『パーティーと招待客』や『ひなぎく』の脚本を書いたエステル・クルンバホヴァーのインタビューを掲載していますが、不条理劇で有名なイヨネスコなどの影響も受けているようで、意味のない会話を書きたかったとおっしゃっています。また、チェコの方はこの映画を見てよく笑ったということですが。 

(ホリー)

 先ほど、一番後ろの席で、笑っていたのは私です(笑)。わけがわからないから笑いたくなる(笑)。非常に怖い映画ですけれども。

 大勢の中で一人だけ(パーティーから)帰ってしまう人物(夫役)は、エヴァルト・ショルムという映画監督です。問題作を作ってその作品が上映禁止になった監督なので、ある意味、自分自身をこの映画の中で演じているとも言えます。後半になって「君までもか」という目つきで、周囲の友人たちの発言に反応をする。ほとんど喋らず、無言で見ている。
 クルンバホヴァーは1960年代のチェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグの立役者の一人で、彼女の存在抜きにヌーヴェルヴァーグを語ることは出来ない偉大な人物です。当時ニェメツの奥さんで、『ひなぎく』や『パーティーと招待客』の脚本と美術を担当し、映画の中で彼女の美的センスが発揮されています。例えば『パーティーと招待客』のパーティー会場の燭台ですが、一つとして同じものがなく、様々な形の沢山の美しい燭台が置かれています。それをどこから持ってきたかというと、恐らくこれは、様々な宗教団体などから没収、押収したものではないか。そういう、映画の中で描かれているものの行間を読むと、当時の社会の状況が想像できる。
  ただ、この映画が制作された1966年というのは(その前の1950年代に比べて)自由な言論の時代になりつつあって、それだからこそ、この映画も製作することができた。そうでなければ、ヒチロヴァーもニェメツもイレシュもショルムも輝くことなく、普通の社会主義リアリズムの、つまらない映画を(笑)、撮っていたのではないでしょうか。

 

 自由化の流れがあったから、この『パーティーと招待客』は撮ることができたわけですが、でも、ニェメツ監督は国会で罵倒され、大統領にも非難され、国家騒乱罪容疑で逮捕されます。牢屋に入れられたのでしょうか?
  

(ホリー)

 恐らく尋問はされたでしょうね。ニェメツだけでなく、ヒチロヴァーの『ひなぎく』も国会で同時に問題視されました。大島渚監督は『愛のコリーダ』の性的な表現で問題になりましたが、チェコスロヴァキアの場合は、政治的な理由で作品が問題になりました。

 

 

 ホリーさんはニェメツ監督にお会いになったことがあるとお聞きしました。
  

(ホリー)

 震災前の2010年の冬にプラハに帰省して、オルガ・ソメロヴァー監督が(有名なオリンピックの体操選手の)ヴィェラ・チャースラフスカーさんのドキュメンタリー(『VĚRA 68』)を撮られていて、監督とチャースラフスカーさんと三人で食事をご一緒した時に、「そういえば、近くにヤンも来ているのよ」と監督が言われ、チャースラフスカーさんも「会いたいわ」と言い、近くのお店に移動しました。人がたくさん集まっていて、ソメロヴァー監督のお友達もいて、その中にニェメツ監督もいらっしゃいました。初めてお目にかかりましたが、綺麗な女性たちに囲まれて(笑)、懇談中でした。 

 

 ニェメツ監督は素晴らしい女性たちと結婚されていて、最初の奥さんがエステル・クルンバホヴァーで、『パーティーと招待客』『愛の殉教者たち』は共同脚本と公私に渡るパートナーでした。次の奥さんが『愛の殉教者たち』に出演したマルタ・クビショヴァー。彼女は1968年の自由化運動(プラハの春)を代表する歌手で、『マルタのための祈り (Modlitba pro Martu)』や、ビートルズの『ヘイ・ジュード』をチェコ語の抵抗の歌詞に変えて歌った有名な方です。2000年にNHKが彼女のドキュメンタリーを放映しています。クビショヴァーとニェメツは、自由化の流れの中で結婚しますが、数年で離婚し、ニェメツはチェコを離れて亡命します。

 

 1968年8月21日未明に、旧ソ連率いるワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに侵攻します。その「チェコ事件」の映像をニェメツは撮影し、事件直後に持ち出しました。彼のおかげで世界中の人が、チェコで何が起こったかを知ったのです。ある意味、彼は命をかけて自分が撮影した映像を持ち出したわけです。もし、その映像の中身が何なのかが検問で判れば、ニェメツは生きていなかったと思います。その映像が『プラハのためのオラトリオ』というドキュメンタリー映画です。自由化の動き(プラハの春)を撮影していたのに、戦車の侵攻や、市民の抵抗、市民が撃たれる映像を撮ることになったのです。

 

 ソ連は、プラハ市民が戦車を歓迎する映像をプロパガンダとして用意していたけれど、先に、ニェメツの映像が世界中に配信されました。映像は最初、オーストリアに持ち出され、テレビ放映され、その後(1968年9月に)、ニューヨークでプレミア上映も行われます。ニェメツは回想録の中で、その当時のことを振り返っています。当時、クビショヴァーと付き合っていて、クビショヴァーの友人にプラハのイタリア大使館に勤めている方がいて、その人と一緒に、自分もイタリア人になりすまして映像を持ち出したそうです。イタリア語が出来たけれど、実はものすごく下手だった(笑)。「国境の検問の人間が、もしイタリア語が出来れば、俺のイタリア語の下手さが判ったんじゃないか」と、ご本人が回想されています(笑)。

 

 そして1968年8月を境に全てが一変してしまいます。チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグの映画を作っている人たち(亡命せずに国内に残った)、ヴィエラ・ヒチロヴァーもイジー・メンツルも、6〜7年間、映画を撮らせてもらえなくなります。(共産党の)当局が「正常化」と呼ぶ時代ですね(註:「正常化」とは、1969年から1970年にかけて反政府的な人々が追放・粛清され、1970年以降、共産党の綱領に沿った「正常」な社会を実現したと自賛した呼称のこと。多くの芸術家が「正常化」時代に亡命した)。

 1970年には共産党の第一書記であったグスターフ・フサークによるフサーク政権が誕生し、彼は大統領になります。

 

 1960年代には日本の映画雑誌で、かなり「チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグ」が注目され、盛んに紹介されていた時期がありましたし、上映もされていました。実は『パーティーと招待客』はシナリオ翻訳が(岩渕正嘉氏の訳で)当時の映画雑誌に掲載されています。私は、この映画を日本に紹介したいと、ずっと思っていましたが、日本の1960年代の映画雑誌を調べたら(翻訳がもう既にあり)「なんだ、もう紹介されているじゃないか」と思いました。

 ただ1968年の「チェコ事件」があって、日本でのチェコスロヴァキア映画の紹介はピタッと止まります。

 

 チェコスロヴァキア国内で上映が禁止されるだけでなく、例えば、ヒチロヴァー監督の『ひなぎく』が国外の映画祭に出品されて賞をとっても、ヒチロヴァー監督はその映画祭に出席できなかったそうですね。亡命させないための措置でもあったのでしょうか?

 

(ホリー)

 メンツルは(「正常化」以降、1989年のビロード革命まで)、コメディーしか撮らない。撮らせてもらえない。チェコの国民的作家ボフミル・フラバル原作(メンツルと共に脚本も担当)の『剃髪式』(1980年)もコメディーです。日本でも原作が阿部賢一さんの訳で(松籟社から)出版されていて、素晴らしい作品ですが、政治的な要素の入ってくる作品は一切撮れなくなります。1969年に『つながれたヒバリ』を撮りますが、作ってすぐに上映禁止になり、初めて上映されたのがそれから約20年後の1990年でした。

 それから皆さんに是非ご覧いただきたいのが、ユライ・ヘルツ監督の『火葬人』です。題名からして「こわーい」と思われるかもしれませんが、私見ではチェコ映画史上ナンバーワンの作品です。映像の素晴らしさ、編集の巧みさ、そしてズデニェク・リシュカによる音楽ですが、この映画によってリシュカは有名になったのではないかと思います。また主役を演じるルドルフ・フルシーンスキーの演技の無気味さ。しかし、この作品はブラック・コメディーなのです。ですから、笑っていただいて結構です(笑)。この映画は1968年に製作されて(上映禁止となり)、1990年に公開されました。

 

 今回、上映禁止になった作品を幾つも紹介しています(『パーティーと招待客』『受難のジョーク(冗談)』『火葬人』『つながれたヒバリ』)。『ひなぎく』もお蔵入りにはなりませんでしたが、『パーティーと招待客』と共に、国会で非難され、1970年以降はヒチロヴァーも撮影許可がおりない時期がありました。

 

(ホリー)

 みんな「お蔵入り」ですね(笑)。チェコスロヴァキアは「お蔵入り」の時期が長くて、「ヌーヴェルヴァーグ作品」イコール「お蔵入り」。チェコ語では「お蔵入り」のことを「金庫入り」と言います。ある意味では、金庫の中に、宝物が眠っていると、ユーモアに変えて言っています。そして、金庫というのは、必ず金庫破りが現れ(笑)、いつか扉が開かれる、いつか観られる時が来るという希望を持って、みんな待っていたと思います。実際に、1989年のビロード革命後、上映禁止となった作品は全て、二十年近い時を経て、公開されました。

 

 また、チェコスロヴァキアの場合、国内で上映禁止と言っても、二重基準があって、国外の映画祭に作品は出しています。なぜかと言うと、外資が必要だからです。アニメーションなどもそうです。イジー・トゥルンカやカレル・ゼマン、それから実写の映画でもヒチロヴァーの『ひなぎく』やヘルツの『火葬人』など、世界中の観客にウケる作品は、出せば、外資として国に戻ってくるわけですから。そういうテキトーさが(笑)、チェコスロヴァキアにはあります。

 

 トゥルンカの全作品も当時、検閲に睨まれていましたが、世界中の映画祭で高い評価を受けていたため、上映禁止にすることは出来ませんでした。しかし、全体主義を描いた『手』(1965)以降は、トルンカも、1秒も映像を撮らせてもらえなくなりました。そして1969年に亡くなられます。

 また、ゼマンの娘さんが1980年代に亡命した後、ゼマンにも撮影許可がおりなくなります(1980年の『ホンズィークとマジェンカ』が最後の作品となる)。1989年4月にゼマンが亡くなった時(ビロード革命はその年の11月)、カナダに亡命していた娘さんはお葬式に出られなかった。帰国する許可がおりなかったのです。そういう「かわいい」チェコアニメーションですよ、皆さん。色々な背景の中で、自由やユーモアや美しいものを監督たちは表現しようとした。

 

 今回、ゼマンの『狂気のクロニクル』も上映します。ゼマンは「チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグ」の監督ではありませんが、ヌーヴェルヴァーグの立役者の一人である、パヴェル・ユラーチェクがこの作品の脚本を担当しています。

 

(ホリー)

 ユラーチェクはFAMU(プラハ芸術アカデミー映画学部)時代から、ヒチロヴァー監督に脚本を提供していましたが、常に二人は喧嘩していたそうです(笑)。『ひなぎく』の脚本にも(原案という形で)彼の名前があります。最初、ヒチロヴァーさんが提案した脚本に対し、「とても読めたものではない」と酷評して、彼が色々と手を加えることで、当局の検閲を通したと、自伝に書き残しています。ただ、その彼が書いた脚本も、検閲を通した後に(クルンバホヴァーとヒチロヴァーが)、どんどん刈り込んでいって、実際に撮影する段階の台本とは大幅に変えられたようです(註:『ひなぎく』Blu-rayの特典シナリオにその違いを記載)。

 

 チェコスロヴァキアの場合、文学シナリオという小説のような形のものが、まず検閲官に提出されて、その後に、撮影用のいわゆる台本が書かれます。そして「チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグ」がユニークなのは、原作者が、原作を提供するだけでなく、共同で脚本も担当しています。メンツルとボフミル・フラバルの共同脚本が有名ですが。

 

(ホリー)

 そうですね。ヘルツも原作者のラジスラフ・フクスと『火葬人』の映画の脚本を共同で書いています。『火葬人』は原作の小説が阿部賢一さんの素晴らしい翻訳で、日本でも(松籟社から)出版されています。また『受難のジョーク』はミラン・クンデラの『冗談』(岩波文庫)が原作ですが、この作品もイレシュ監督とクンデラが共同で脚本を書いています。クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』は、のちに他の監督が映画化しましたが、それを観たクンデラは「私が生きている間は、二度と、自分の小説を映画にされたくない」と言ったそうです。原作を提供するだけで、脚本に関われなかったからでしょう。
 日本でも安部公房さんの『他人の顔』や『砂の女』など、安部さん自身が脚本を書き、勅使河原宏さんが監督をするなど、1960年代には小説家が自分の作品の映画化に関わるという流れがあったと思います。

 

 『パーティーと招待客』は、音楽を担当したカレル・マレシュが、カレルという名前のいじめられる男の役で出演していますね。

 

(ホリー)

そうですね。カレルをいじめるルドルフ役を演じたヤン・クルサークも実は音楽家で、『ひなぎく』ではピアノを弾く男で出演し、『闇のバイブル(ヴァレリエと不思議な1週間)』ではスケベ神父役で登場します。彼はチェコの有名な現代作曲家でして、今、80代ですが現役でお元気です。  もう一つ、当時の映画の特徴であり、魅力であるのが、非職業俳優(ノーアクターズ)を起用することで、これは当時の世界的な傾向でした。『パーティーと招待客』も、プロの俳優は主人役のイヴァン・ヴィスコチルだけで、彼は劇作家であり、演出家でもあり、1929年生まれで、現役で、今も舞台に出演されて、とても面白い俳優です。日本でも彼の書いた作品(『そうはいっても飛ぶのはやさしい』)が翻訳されていますね。彼の作品は、非常に不条理かつ、笑える作品です。『パーティーと招待客』も笑えます。個人的には一番笑えるのが花嫁さん。もう、ド下手、ド下手(笑)。あの台詞の言い方、演技、つらすぎて笑えます(笑)。また、ロケ地の村にいたその辺のおばさん、スカーフをかぶったおばさんや、おじいさんが出てきますよね。「村の衆」という感じで。台詞もなく、それはそれで、微笑ましい(笑)。
 そうした非職業俳優の中から、大スターも生まれてきます。一番有名なのはミロシュ・フォルマン監督の『黒いペトル』や『ブロンドの恋』などフォルマン作品の常連俳優であるヴラジミール・プホルトです。脇役から、主役を演じる大スターになりますが、元々は非職業俳優でした。フォルマンのチェコ時代の作品は全て、『火事だよ! カワイ子ちゃん』にもたくさんの非職業俳優が登場して非常に面白い映画ですが、『パーティーと招待客』の花嫁ほど、つらい人はいない(笑)。あれが最高峰です(笑)。

 

 1968年というのは、チェコにとっては特に大きな節目ですね。それ以外にも8のつく年には大きな変化があります。1918年はチェコ建国、1938年はナチスドイツに侵略され、1948年には共産党による2月革命(軍事クーデター)が起こります。

 

(ホリー)

ビロード革命はたまたま1989年ですが。来年は2018年で、チェコスロヴァキアという国が出来てから100年が経ちます。大統領選挙もあります。

 「プラハの春」と「チェコ事件」がチェコ人に与えた影響ですが、映画人だけでなく、全てに影響を与えました。文学もそうですし、ミラン・クンデラも数年後、70年代に亡命します。
 70年代というのは、両親や祖父母から聞いた話では、非常に不自由な時代だった。言論の自由はなく、全く何も言えない。家で話されることは、絶対に外に持ち出すなと言われました。学校の先生も「同志」と呼ばなければいけない時代です。私が小学校に入学したのは70年代の終わりで、当時の写真を見ると、ベルボトムのズボンでした(笑)。今、見ても、かっこいいな、と思いました(笑)。クラスで撮った写真には、レーニンの「勉強して、勉強して、勉強しろ。」という言葉が飾られていました。先生にあげる花は、赤いカーネーション。日本では母の日に贈る花ですが、私は共産主義時代を思い出してしまいます。赤は共産主義の色で、同志に渡すものだ、という印象があります、私の世代は。

 70年代後半からヒチロヴァーや、メンツルは映画を撮り始め、80年代には、ソ連にはゴルバチョフさんが登場し、大きく変わっていきます。

 

 ビロード革命を主導し後に大統領になったハヴェルは劇作家であり、自由化を求める「憲章77」を1977年に起草したメンバーです。

 

(ホリー)

 ハヴェルのことも初めて聞いたのは1988年だったと思います。また先ほど話に出てきたマルタ・クビショヴァーも、1989年11月にビロード革命が起き、市民のデモがヴァーツラフ広場に10万人集まり、私も父に連れられて行きましたが、その時に初めて、彼女の曲を聞きました。父親は音楽関係の仕事をしていたにも関わらず、私は聞いたことがなかったし、彼女のことを知らなかった。母に理由を聞くと、「(彼女について)喋ったら、まずいかもしれない。秘密警察がうちに来るかもしれない。」と言っていました。ただ、私の子供の頃は、暗いばかりではなく、楽しかったのです。チェコは大変だったと同情されるかもしれませんが、普通に楽しかった。(子供だから)知らなかっただけなのかもしれませんが。

 

*会場からの質問

 チェコを去った人(亡命した人)に対して、残った人々は冷たいと、以前、ホリーさんの講演でお聞きしましたが。

 

(ホリー)

 ニェメツは1989年のビロード革命の直後にチェコに戻り、すぐ(1990年)に映画を撮りました。当時のチェコの時代背景として、ゆっくり映画を観られる雰囲気でもなかったため、あまりその映画は評価をされませんでした。チェコの人全部がそうだというわけではありませんが、亡命者が撮った映画、国を捨てて、外国に行って、いい生活をしてただろう、という妬み・嫉みがあった。実際には、亡命して、みんな苦労していたと思いますが、それを考えないで、そうした対応をする人々もいたようです。外国に行った監督は、それを意識してか、「チェコ出身のヤン・ニェメツです」とか、「チェコ出身のミロシュ・フォルマンです」と、自己紹介をします。

 

 ただ、フォルマンの場合は、他の亡命者と違って、『アマデウス』(1984)を撮る時に、ハリウッドのクルーをプラハまで連れてきたわけです。本来ならば、アメリカで市民権を得て、亡命者とみなされるフォルマンは、二度と、チェコの国境をまたげない筈だった。その彼が、なんとチェコに凱旋してきた。その時の彼は英雄ですよ。アメリカで大成功し、『カッコーの巣の上で』『ヘアー』『ラグタイム』を撮り、アカデミー賞監督賞を受賞している。その彼が『アマデウス』をプラハで撮る。国にとっても、外資が流れてくるわけですから(笑)、それで許可がおりたのだろうと思います。フォルマンがロケを始めると、フォルマンをプラハのどこどこで見かけたという噂がすぐに広まる(笑)。私も覚えていますが、プラハの映画館で完成した『アマデウス』を観て、終わった後に、観客がみんな立ち上がって、ものすごい喝采、拍手をしていました。

 

質問:『パーティーと招待客』は理解できないシーンが多かった。それぞれのシーンに象徴されるものは?

 

(ホリー)

「各自で考えてください」(笑)。これはシュヴァンクマイエル監督の言葉の引用です。

 常に怖いのは、不自然じゃないですか、わけがわからない、しかも滑稽な連中が出てきて、束縛されるわけじゃないですか、カバンの飾りも切られて、自由を妨害する。そしてそれが全部、映画の中で許されていく。登場する文化人も(自由を妨害する連中に対し)気を使いながら、それぞれの問題に反応し、許容していく。言い表せない怖さというものがあると思います。(地面に足で線を描いて人々を囲うシーンについて問われ)人を囲う、柵を作るというのはどういう意味でしょうね? (地面に描かれた線なのに)その柵を越えられないじゃないですか。(壁も扉も存在していないのに)鍵をなくした、開けられない、と、そこに捕らえられた人間を上から目線で馬鹿にする。冗談には聞こえますが、やってはいけないことだと思います。友人同士の冗談ではなく、誰だかわからない連中じゃないですか。一つ一つの象徴が強くて、本当に怖いなと思いました。

 

12/2「ブルデチュカ映画祭」初日『レモネード・ジョー』上映後にホリーさんのトークがまた行われます。

 

(ホリー)

 『レモネード・ジョー』(1964)はコメディで、西部劇のパロディーですが、当時、アメリカ的な西部劇というのは、チェコスロヴァキアでは撮影許可がおりない。しかし、西側を馬鹿にするパロディーであれば、西部劇が撮れる(笑)。でも、国民は、西部劇が好きで、笑いながらも本当の西部劇のように楽しんでいたようです。(レモネードの商品名が)コカコーラではなく、コラロカで(笑)、この作品は、アメリカのアカデミー賞に出品されて、逆輸入のような形になります。  

 ブルデチュカが脚本で、リプスキー監督の作品というのは『レモネード・ジョー』や、肉食植物の『アデラ』ですとか、『カルパテ城の謎』がありますが、やはり、12/2からも見逃せません(笑)。ニェメツの『パーティーと招待客』と同じ1960年代の作品と言っても全く違いますが、両方観ていただけると、チェコの面白さが味わっていただけると思います。


 

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 昨年・2017年の「チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグ」映画祭上映後に、チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグを代表する二人の監督が、相次いで、この世を去りました。

 ユライ・ヘルツ監督が2018年4月8日に、ミロシュ・フォルマン監督が2018年4月13日に亡くなられました。故人の素晴らしい映画の数々が今後も永く愛されることを願っております。